日本人初の『プロマネージャー』として ― 選手寮 寮長 村野晋氏 ―

セレッソ大阪選手寮 寮長  村野晋氏

 

 2019シーズンより、セレッソ大阪の寮長に就任、明日の桜戦士を夢見る若手選手の育成を、生活面から支えているのが、村野晋氏だ。
村野氏の名前を聞いてピンときた人は、相当なJリーグファンだ。Jリーグ誕生前から様々なクラブや日本代表チームで要職を歴任してきた村野氏の歴史は、そのままJリーグの歴史でもあり、日本サッカーの側面を照射している。

 

 「私は、自称ですけれど、日本人初のプロマネージャーです」
こう語る村野氏とサッカー界のかかわりは、村野氏が1986年に駒澤大学を卒業後、全日空スポーツと業務委託契約を結んだことに端を発する。当時、日本サッカーはJリーグ誕生前。日本サッカーリーグ(通称JSL)は、様々な企業がサッカー部を所有し、リーグ戦を行っていた。そのJSLに所属していた全日空横浜サッカークラブに「プロのマネージャー」として「就職」したのだ。
 「実は大学卒業時にちょっとやりたいこともあったので、就職活動をしなかったんです。しかしその頃、全日空の選手数名が試合をボイコットするという『事件』が起こり、その騒動の中で退職者も出たようで、スタッフも足りなくなっていました。そこでスタッフを探している中で、私のところに手伝ってほしいという話が来ました。当時の正式なチーム名は全日空横浜サッカークラブだったと思います。そのクラブを運営している全日空スポーツ株式会社(以下全日空スポーツ)という、全日空の子会社と就職ではなく、契約したというのが、私がサッカー界に入った正しい経緯ですね」

 

 今でこそ学生の人気就職先であるスポーツビジネス界だが、村野氏が大学を卒業した当時は、まだスポーツビジネスという言葉すら一般的ではなかった。村野氏が契約した全日空スポーツも社長は全日空の役員が兼務し、実務を取り仕切るのは親会社から出向していた部長。監督以外のコーチや選手の多くは社員という、正に『企業スポーツ』そのものだった。
「北京五輪でオリンピック代表監督を務めて、現在はJ1所属の松本山雅で監督を務めている反町(康治)さんなども、当時は全日空スポーツの社員でした。午前中は普通に社員として仕事をこなし、午後からサッカーの練習という日々を送っていました。ですから私も午前中は会社に行き、午後からグラウンドに行くという生活でした」

 

 そんな日々を送る村野氏にとって、Jリーグ誕生は大きな環境の変化でもあったが、村野氏自身は業務委託契約という、事実上のプロ契約を結んでいたため、生活には大きな変化は無かったという。変わったことといえば、全日空スポーツが横浜フリューゲルスという名前になったことと、社員だった選手がプロサッカー選手となり、閑古鳥が鳴いていたスタンドが、大観衆で埋め尽くされるようになったたことくらいだった。
 村野氏にとって大きな転機が訪れたのは94年。前年の天皇杯で優勝した後、日本サッカー協会へ出向することになったのだ。
前年に日本代表はワールドカップ最終予選を勝ち上がれず、ワールドカップ出場は目前で夢と化した。俗に「ドーハの悲劇」と呼ばれる試合が行われた年のことだ。その後、日本代表はファルカン監督を迎え、98年のフランスワールドカップ出場を目指してスタートした。そのタイミングで村野氏は日本サッカー協会に出向となり、強化委員会の委員、代表チームの総務などを務めることとなった。その年、アジア大会で日本代表チームは準々決勝で韓国代表に敗れ、ファルカン監督は解任、加茂周氏が後任として日本代表監督の座に就いた。
就任直前まで横浜フリューゲルスの監督を務めていた加茂氏は、村野氏の能力を高く評価していた。そのため、村野氏は引き続き代表チームの総務という肩書きで、加茂監督の片腕として日本代表チームに深くかかわることとなった。

 

 日本中の期待を受けて戦っていた『加茂ジャパン』の終焉は、突然に訪れた。ワールドカップ予選の中で、なかなか思うような結果が出なくなり、1997年10月、最終予選でカザフスタン代表と引き分けた直後、加茂監督は更迭された。その際、村野氏は日本サッカー協会を退職してしまった。
「もともとサッカー界に入りたくて入ったというわけでもなかったので、旧知の加茂氏が監督を更迭されるのは、そこを離れるいい機会だと思いました。周りには引き留めてくれる人もいましたが、私自身はそれほど未練がありませんでした」

 その後、村野氏は半年ほど仕事をせずに過ごしていた。そして仕事探しを始めると、すぐに声がかかった。それはまたしてもサッカー界からだった。
「次に働いたのは2002年の日韓ワールドカップ事務局でした。98年にそこに入り、事務仕事をしていました。主な仕事はキャンプ地の手配などでしたね。結局、2002年のワールドカップが終わるまで、そこで働いていました」

 

ワールドカップ終了後、半年ほどして村野氏は新たな職場に迎えられた。迎えたのはコンサドーレ札幌だ。コンサドーレ札幌のチーム統括部長を務めていた小山哲司氏から「チームをまとめられる人間を探している」ということで村野氏に声がかかったのだ。
「札幌に入ったのは2003年の1月24日でした。なぜ日にちまで覚えているかといえば、その日は私の誕生日だったからです(笑)。最初は道が凍結しているのを見て『凄いところに来たな』と、改めて思ったことを覚えています」

 

 村野氏が加入した当時、コンサドーレ札幌にとっては大きな変化が起きていた。その1つが佐々木利幸氏の社長就任だった。札幌市民生局長や札幌市青少年婦人活動協会理事長を務めてきた佐々木氏は、コンサドーレ札幌北海道後援会監事も務めていた。その佐々木氏は村野氏と相前後して2003年よりコンサドーレ札幌の社長に就任したのだが、実はこれがコンサドーレ札幌にとっては初の専任(常駐)社長の誕生だったのだ。
 専任社長ということもあり、佐々木氏はチームの改革に乗り出した。当時のコンサドーレ札幌は若い選手を中心に問題が多発していた。時には外国籍選手による暴行事件もあり、マスコミを賑わせていた。そこで佐々木社長と村野氏が話し合い、若い選手にはしっかりとした食事を取らせよう=生活を見直させようという話になり、単身赴任していた村野氏が一軒家を賃貸するということになった。これがJリーグで最も有名な寮長誕生の瞬間だった。
「私も一軒家を借りたのはいいけれど、選手の料理を作ることまでは手が回らないと考え、妻を呼び寄せました。そこで最初は食事を作り、若手選手に食べさせていたのですが、不祥事は続きました。そこで、これは寮を作り、生活から管理するしかないという話になり、佐々木社長の尽力によって、2005年の3月に「しまふく寮」が誕生したのです」

 

ここに至る流れの中で、村野氏の手腕を高く評価していた佐々木社長は、ことあるごとに村野氏に相談を持ちかけていた。そのため寮が誕生したとき、村野氏が寮長になるのは、自然な流れだったとも言える。
「佐々木社長は、私が家族とともに寮に住み込むために、寮の1階に私たちの住居として3LDKの住居スペースを用意してくれました。寮に入るのは高卒の選手は3年目まで、大卒の選手は1年という制限を設けました。ユースの選手は数名でした」

 

 

 

 

 その後、様々な要職を歴任した村野氏だが、次の転機は2009年だった。ヴィッセル神戸に移籍したのだ。
「2008年には札幌でゼネラルマネージャーを務めていました。そのシーズンはJ1復帰初年度だったのですが、最下位に終わり、1年でのJ2降格となってしまいました。その結果に対しては誰かが責任を取る必要があり、私から辞任を申し出ました」
そのタイミングで村野氏に声をかけたのは、当時ヴィッセル神戸の社長を務めていた安達貞至氏だった。かつて横浜フリューゲルスでゼネラルマネージャーを務めていた安達氏と村野氏は旧知の仲。折りしもヴィッセル神戸が寮(三木谷ハウス)を作り、寮長を探していた。そこで安達氏は、「寮長」としてJリーグの関係者の間では有名な存在だった村野氏を訪ね、どのような業務が発生するのかなど実務面についてのヒアリングを行った。その結果、相当な激務であることが判り、人選は難航していた。そこに、村野氏がコンサドーレ札幌を退職するという話が持ち上がったため、安達氏が声をかけたという流れだった。

 

 ヴィッセル神戸では10年間に渡って寮長を務めた。その間、育成統括部長や強化部長なども兼任したが、村野氏の中で10年という時間は区切りでもあったのだろう。
「ヴィッセル神戸では、札幌とは違う面白さを感じました。クラブ自体は1995年から続いていますが、三木谷浩史会長が経営に乗り出したのが2004年ですから、事実上は若いクラブでした。新しいクラブ特有の『伸びていく雰囲気』は、非常に面白いものでしたね」

 

 そしてヴィッセル神戸を辞めた時、声をかけてきたのがセレッソ大阪だった。声をかけたのはセレッソ大阪の育成部門を担う「一般社団法人セレッソ大阪スポーツクラブ」の理事、宮本功氏だった。宮本氏が声をかけたのは、村野氏の手腕に加え、明子夫人の存在も大きかったようだ。コンサドーレ札幌時代から「美人寮母」としてメディアで取り上げられることの多かった明子夫人は、ヴィッセル神戸時代には料理本を出版するなど、料理人としての評価も高まっていた。若手の育成に定評のあるセレッソ大阪だけに、生活面や栄養面の体制強化は常に考えていたのだろう。
「私も妻も、ヴィッセル神戸を辞めた後、それぞれ複数の選択肢は持っていました。しかし宮本氏が『夫婦で来てくれ』と声をかけてくれましたので、それが決め手になりました」

 

#2に続く

村野 晋(むらの・すすむ)
■生年月日
1964年1月24日

■経歴
◇1992年~1994年
横浜フリューゲルス ヘッドマネジャー
◇1994年~1997年
公益財団法人日本サッカー協会 日本代表チーム総務 − 強化委員会総務担当委員 − 技術部長代理
◇1998年~2002年
2002FIFAワールドカップ日本組織委員会(JAWOC)
◇2003年~2009年
コンサドーレ札幌 − 管理部長 − コンサドーレ札幌独身寮(しまふく寮)寮監 − チーム統括本部長兼GM
◇2009年~2018年
ヴィッセル神戸 − 総務部長 − 広報部長 − チーム統括本部長兼アカデミー本部長 − ヴィッセル神戸選手寮(三木谷ハウス)寮長

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